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【マンスリーアイドルコラム No.072】アップアップガールズ(2) 兵頭美波 #1「私には、収集癖がある」(4月火曜担当・全4回)

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シールを選ぶその瞬間は、何かが整うような感覚に浸る

アニメグッズもまた、私にとって大切な記憶の断片だ。

特に『おジャ魔女どれみ』シリーズは、アニメのセリフからBGMまで全てを再現できるほど大好きなアニメで、私の人生のバイブルである。

放送当時はまだ生まれていなかった私は、姉の影響からDVDで全編視聴した。作中で登場する魔法のステッキのような「ポロン」というおもちゃに夢中になった記憶は鮮明だ。あのキラキラとした、まるで夢のような世界観。それだけでなく現実の厳しさなども織り交ぜられた、魔法と現実が共存する特別な世界。

当時、私は姉のおさがりのポロンで一人どれみちゃんごっこをしていた。私自身は、作中に欲しいアイテムが登場してもリアルタイム視聴でないため、すでにおもちゃが販売終了していて手に入らないという悲しみも経験し、子どもながらにむなしさを感じたこともあった。
しかし、数年前からそれらのおもちゃの復刻版が当時視聴していた世代の大人向けに発売されるようになった。

私は迷わず全てを買い集めると決断した。

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未開封のおジャ魔女グッズ

放送当時のおもちゃはプレミア化しており、今販売されているものも受注生産という限定感。「今しかない」「全部欲しい」「揃えたい」「手元に置きたい」という欲求と同時に、あの頃の記憶をとどめたいという強い思いが、私を突き動かしていたのだと思う。

しかし、到着を楽しみにしてようやく自宅に届いても、段ボールから出すことなく、部屋の片隅で箱のまま積み重なっていく復刻版ポロンたち。開封という行為により形が変わることを恐れているのだろうか。

それらは、私にとって「あの頃の夢」がそのまま封印されたタイムカプセルなのだ。開けてしまうことで、その完璧な状態が失われることを恐れているのかもしれない。

あの頃の自分が、あのポロンに託した純粋な願いが、色褪せずにそのまま保存されているような気がして、開けることができない。

『ミルモでポン!』や『たまごっち』といった、同世代が懐かしむであろうアニメやキャラクターグッズも、同様に私の収集対象だ。100円ショップでランダム商品が売られているのを見かけると、つい手が伸びてしまう。そこには、あの頃の懐かしさと、手軽に手に入れられるという気軽さが共存している。

子供の頃は、高価で手に入らなかったものが、今では驚くほど安価で手に入る。そのギャップが、私に「今なら手に入れられる」という達成感を与えてくれる。

しかし、それらもまた、開封されることなく、引き出しの奥に眠っていく運命なのだ。特に、キャラクターのフィギュアなどは、その精巧な作りや、キャラクターの表情をそのままに保ちたいという思いから、箱から出すことすらためらってしまう。

箱を開けるという行為は、そのフィギュアが持つ「新品」という価値を損なうように感じられるのだ。

「もったいない」という気持ちは、私にとって「大切にしたい」という思いの裏返しであり、それが開封できない状態を維持させる大きな要因となっている。

シール集めも、私の収集癖の対象だ。

最近、「平成女児ブーム」を背景に、シール帳が再び注目されている。
幼少期のシール交換の思い出、友人とのコミュニケーションツールとしての楽しさ、あるいは単に流行に乗っかりたいという気持ち。様々な理由で、多くの人がシール集めを楽しんでいるようだ。

SNSに広がる無数のシール帳には、かわいらしいもの、珍しいもの、個性的なものが並び、シール帳そのものがその人らしさを物語っている。

私の場合はどうか。

たとえば、疲れているとき。何もかもうまくいかないと感じる日。そんな時、私は100円ショップでシールを購入する。
ふらりと立ち寄った帰り道、まるで吸い込まれるように店に入り、特に必要でもないのに気がつけば大量購入している。

動物柄、リボン、ピンク、好きなキャラクター…。自分が「ときめいた」ものを、次から次へと手に取っていくのだ。

最初は、もともと幼少期からシールが好きだったため、自分へのご褒美のような感覚で買うようになったことがきっかけだった。

100円という価格で、ちょっとしたご褒美には丁度よかった。

しかし、だんだんとシールを買うという行動そのものに癒され、安心感を得るようになった。

最初は「可愛い」という感情だけで買っていたものが、次第に「これを買うことで、私は満たされる」という、ある種の自己肯定感へと繋がっていった。
シールを選ぶその瞬間はほんの数分かもしれないが、その数分間、何かが整うような感覚に浸ることができる。

幼少期、お小遣いを握りしめて文房具店に入り、キラキラしたシールに心を奪われた。
シャカシャカと音が鳴るホログラムシール、透かしの入ったキャラクターシール、キラキラのラメが散りばめられたもの、液体が入っているもの。その一つ一つが、私の心をときめかせ、まるで宝物のように感じられた。

しかし、いざ買っても、もったいなくて使えない。友達と交換するのも、自分のシール帳に貼るのも、なんだか惜しい気がして、結局、購入した時の袋に入ったまま、大切に引き出しにしまわれていく。シール帳に貼られたシールは、その子の「個性」を物語るというが、私のシール帳は、ほとんど空っぽのまま、あるいは数枚のシールが寂しく並んでいるだけだ。

それは、私がシールそのものよりも、「シールを買う」という行為、そして「いつか使えるかもしれない」という未来への期待感に、より価値を見出しているからなのかもしれない。

100円ショップで大量のシールを前にして、「これだけ買っても、まだ足りない」と感じてしまうのは、私がシールそのものに価値を見出しているのではなく、シールを購入する行為に、自分を肯定する力を求めているからなのだろう。

シールを手に取り、レジに持っていくまでの、あの短い時間の間に、私は日常の悩みや不安から解放され、純粋な「ときめき」に満たされる。その瞬間こそが、私にとっての収集の醍醐味なのかもしれない。

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シールコレクションの一部