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【マンスリーアイドルコラム No.072・初週のみ無料公開】アップアップガールズ(2) 兵頭美波 #1「私には、収集癖がある」(4月火曜担当・全4回)

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すべてが私の「いつか」という希望の象徴

私の収集のピークは、購入するその瞬間なのだろうか。
自宅に持ち帰った、あの時の「幸せ」は、ただの「モノ」になってしまうのだろうか。

「使わないのに買うなんて意味がない」。そう思う人も多いだろう。しかし、私はそれをやめることができない。この行動の裏には、一体どんな心理が隠れているのだろうか。自分なりに考えてみる。

収集癖によって、私の部屋には、開封されることのない「モノ」たちが、どんどん増えていく。
最近は、部屋のスペースも逼迫し、断捨離を試みてはいるものの、なかなか捨てられるものが見当たらない。

例えば、洋服についていたブランドタグ。それを捨てられないのは、その服を購入した時の気持ちや、好きなブランドで服を買ったという思い出まで失ってしまうような気がするからだ。人から見れば、単なるゴミかもしれない。しかし、私にとっては、かけがえのない「宝物」なのだ。

大学時代、少し背伸びをして、憧れのブランドの洋服を買ったことがある。その時の高揚感、店員さんの丁寧な接客、そして家に帰ってタグを眺めながら、いつかこの服を着て、特別な場所へ行こうと夢を膨らませた。

結局、その服はほとんど着ることなく、クローゼットの奥に眠ったままになっている。

しかし、その服についているブランドタグは、あの日の私の「特別な気持ち」を鮮やかに思い出させてくれる。タグを捨てるということは、あの日の高揚感や未来への期待感まで、一緒に捨ててしまうような気がしてどうしても捨てられないのだ。

そのタグは、私にとって「あの日の私」と現在の私を繋ぐ、小さな錨(いかり)のような存在なのだ。服そのものよりも、その服にまつわる「記憶」や「感情」が、私にとって価値がある。だからこそ、服は着なくても、タグは捨てられない。

小学校からの教科書、授業中に友人と回した手紙、可愛い表紙の未使用ノート。

これらは、10年以上私のそばにいた、大切な記憶の断片だ。

教科書を「場所をとる書類」として見れば、すぐにでも処分したい誘惑に駆られる。

しかし、私が「ともに過ごした教科書」として見た瞬間、それは、あの頃の自分、あの時の時間を鮮やかに思い出させてくれる、かけがえのない存在になるのだ。

小学校の算数の教科書。

円周率のページを開いたとき、当時の算数の先生が、小人数クラスの生徒たちに厳しくも温かく指導していた姿が目に浮かぶ。絶対に下敷きを持っていかないと怒られたこと、その下敷きが猫の絵柄で、とても気に入っていたこと。そして、その下敷きに、名前のシールを貼っていたこと。名前シールを作るのにハマっており、ありとあらゆる場所に貼っていた記憶まで、芋づる式に思い出される。

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捨てられないので当時のまま残っている下敷き

授業中に友人と交換した手紙もそうだ。誰が書いたか、どんな内容だったか、その手紙を交換した時の状況や感情。それらは、当時の楽しかった思い出や、休み時間にドッジボールに夢中になっていたこと、運動会で披露した組体操、そしてその組体操のとある技の場面のBGMが好きだったこと。
次々と連想させてくれる。

私はそのBGMが忘れられず、10年かけてありとあらゆるサウンドトラックを再生し探し続けた。
ある時テレビのワンシーンでその音楽が使われているのを聞きつけ、その番組のアーカイブが見られるサブスクに即入会し、音楽探知アプリで特定したほどだ。

10年かけ、執念でその曲までたどり着いた。今では毎日聴くプレイリスト入りしている。

それほどまでに、モノにまつわる記憶は、私の中で鮮明に、そして執拗に刻み込まれている。

可愛い表紙の未使用ノートも、私にとっては青春の断片だ。

最初は「可愛いから」と購入するものの、いざ授業で使うとなると、急にもったいない感じがしてしまう。
結局、無地のノートを買って授業で使い、可愛いノートは未開封のまま溜まっていく。

それらのノートは、購入した時のワクワク感、どんなことを書こうと思っていたか、それ自体が私にとって青春の一コマとなっているのだ。

将来、日記を書こうと思っていたノート、イラストを描こうと思っていたノート、あるいは、ただ単純に、その可愛い表紙に惹かれて買っただけのノート。それらすべてが、私の「いつか」という希望の象徴であり、開けることのできない、宝箱のような存在なのだ。