今年20周年イヤーへ突入したAKB48。
そんなタイミングで、AKB48が「国民的アイドルグループ」へと階段を上っていった瞬間を振り返ろうという当連載。この長い歴史を振り返えれば、2025年の明日が見えてくる!
AKB48は同世代の憧れになり始めている
AKB48にとって14枚目のシングル『RIVER』は2009年10月21日に発売された。これはAKB48にとって勝負曲だった。これでコケたら次はない。それくらいの気合いがスタッフから感じられた。何人かのメンバーも「勝負曲」と話していた。
発売の翌週、朗報が飛び込んだ。オリコン週間シングルチャートで『RIVER』が1位を獲得したという。AKB48としては初の週間での1位だった。その枚数は約17万9千。女性アーティストとしての同年最高記録だった。AKB48の自己ベストは、『涙サプライズ!』が18週かけて達成した約14万4千枚だったが、わずか1週で軽く抜き去った。
オリコンのチャートはデイリーではなく、週間での順位に意味があった。デイリーでの記録は一部の熱狂的ファンがまとめ買いをすることで簡単に順位が入れ替わるが、週間だとそうはいかない。今までの週間の最高位は『涙サプライズ!』と『言い訳Maybe』の2位だった。
この前年あたりから、私は足しげくAKB48劇場に通っていた。というのは、アイドル誌『B.L.T.』が出していたAKB48生写真のスタッフでもあったからだ。ほとんどのメンバーは都内のスタジオでまとめて撮ってしまうのだが、どうしても数名の漏れが出てしまう。
その漏れたメンバーを撮るために、カメラマンとともに劇場の楽屋前のスペースにブースを設置して、いつでも撮れるように13時からスタンバイしていた。
劇場公演前の時間帯に撮れてしまえばいいのだが、リハーサルが延びたりすると公演後の撮影になる。公演中はすることがないので、公演を袖から見せてもらい、その後、メンバーがメイク直しをするのを待つ。
撮影を終えて、片づけが終了するのは22時を回ることもあり、つまり、11時間以上も劇場内にいることになる。まったく割りは合わない。しかし、この当時上演されていた『ただいま 恋愛中(チームA)』『恋愛禁止条例(チームA)』『最終ベルが鳴る(チームK)』『逆上がり(チームK)』『パジャマドライブ(チームB)』『アイドルの夜明け(チームB)』といった公演は何度も観覧できたし、手が空いているメンバーと他愛ない会話をし、距離を縮めることができた。この経験は大きかった。メンバーは私を広い意味で“AKB48スタッフ”として認識してくれているようだった。
それはさておき、劇場公演を観測していて気づいたことがあった。それは、若いファンが徐々に増えていることだった。AKB48は同世代の憧れになり始めている――。そんな手応えが感じられた時期でもあった。
12月上旬、私は沖縄県にいた。宮崎美穂1st写真集撮影のためだった。12月の沖縄は、日中は半袖では頼りなく、1枚羽織るものがほしくなる気温。そんな中、水着姿の宮崎は愚痴ひとつこぼすことなく頑張ってくれた。
夜はスタッフ一同でバーベキューを楽しむことになった。宮崎は「私が焼きますよ」と率先して腕を振るった。人に振る舞う料理は初めてだというが、鉄板でやきそばを作ってくれた。
翌年2月に発売されたこの写真集『SHINING SKY』は、ある番組の月間アイドル写真集ランキングで1位になった。この頃、宮崎は選抜メンバーだった。当時、グラビアアイドルの世界はブームが一段落つき、AKB48が各誌のグラビアを飾りつつあった。雑誌の世界でも潮目が変わろうとしていた。
12月中旬、ある雑誌で5期生を中心としたメンバーで撮影を敢行した。そこで私は指原莉乃をインタビュアーに指名した。メンバーがメンバーに話を聞く方が本音を引き出せると判断したからだ。それは事務所の推しでもなんでもなかった。
なぜ指原だったかというと、すでにトークの実力があると感じていたからだ。頭の回転が速く、こちらの意図をくみ取る力もあった。それはこれまでのインタビューでも感じていたし、『アイドルの夜明け』公演でのMCからも感じられた。指原は“ドリアン指原”を自称し、どうやったら目立てるかを考えていた。だが、後に選抜総選挙で1位に輝き、タレントとして一流になり、アイドルグループのみならずコスメやカラコンをプロデュースするようになると想像したことはなかった。